『戦国自衛隊1549』見ました。

オリジナル版にしろ、少し前のテレビ版にしろ、自衛隊がほぼ全滅するストーリーだったわけですが、この作品では、あらかじめ帰ってこれるという設定が最初に出てきたので、見ていて安心でした。

増永という人の性格類型で{知性派、行動派、情緒派}というのがあるのですが、その類型に当てはめると、全滅する場合と今回の場合の行動パタンの違いが図式的に理解できました。真善美とか、知情意とか、{分裂圏、そううつ圏、神経症圏}とか、{考える前に走り出す、考えながら走る、考えてから歩き出す}など似た3つの組がありますが、今回の場合は、増永の類型がぴったりです。

まず、全滅するパターンが情緒派です。困難にぶつかったときに、自分の有利な立場を信じて、メリットを最大限発揮できる消耗戦に持ち込むという様な感じです。敵を作らない生き方をしていれば、それで済むはずなのですが、極端な困難にぶつかってた場合には、自分を悲劇のヒロイン扱いしてしまって、蛮勇を奮い、ジリ貧になって、弾切れでおしまいということですね。
それに対して、困難な状況を逆にチャンスだと捉えなおして行動するのが行動派です。その結果、従来の主義主張に反する行動であっても平然と可能です。この映画の鹿賀丈史の役回りがそれです。勝者が全部を取る、やるかやられるかの競争状態なんだから、出口があろうとなかろうと、方向がどちらであれ全力で駆け抜けるのが正しいという殺伐とした状況は、悪役にふさわしいですね。ただし憎まれっ子世にはばかるとも言うわけで、これが基本になっているようにも見えます。
そして、主義主張を曲げないせいで時流にはなかなか乗れないけれど、その間に学んだことを生かしてギリギリのところで創造性を発揮して逆転劇を演じるのが知性派です。今回の映画の江口洋介の役回りです。果たして、こういう戦略が成功する場合がどれほどあるのか? 現実には、時間切れになって、文化として次世代に託すという場合が多いような気もします。それゆえ、物語はすべてこの形になってさえいる様な気もします。
ルールを変えればよいというセリフがあったみたいに、強敵を知略で出し抜くというのは、物語としては痛快なのですが、現実的には、じゃんけんの三すくみの様なことも起こってしまいます。鹿賀を出し抜くために江口洋介天皇を引っ張り出す(あるいはそうしたかの様に振舞う)必要が出てきましたが、現実にはここの部分に問題が生じます。ウォーレスがダーウィンに手紙を書いて、その結果ダーウィンに先取権を奪われてしまった様なことです。しかし、ウォーレスとしては、その危険を冒さないわけにはいかなかったわけです。子供向けの偉人伝には、エジソンがGEの経営権を失っていく過程とか、ホワイトヘッドライト兄弟が航空産業から消えていく過程が描かれない様に、物語としては適さないのかも知れませんが、さらなる次回作があったとしたら、前回はハッピーエンドで終わったはずが、、、という始まり方で、タイムとラベルを3往復くらいしてほしいものです。